なぜ「私を好きな人」を選んできたのか?本当に大事な問いに気づいた話

こんにちは
だまブログ管理人のだまです。

「一緒にいたい」と思われることと、「一緒にいたい」と自分が思うこと。

この二つは、似ているようでまったく違う。

私は長い間、「一緒にいたい」と思ってくれる人が必要でした。
相手が私を求めてくれるかどうかを、自分がそこにいていい理由にしていたからです。

でも最近、あるLINEをきっかけに、ずっと見ないふりをしてきたパターンに気づいてしまった。

今回はそんな話を書いていきたいと思います。

この記事は、このような方におすすめです

  • 気づけばいつも相手の顔色をうかがっていてしまう人
  • 「自分を変えたい」と気づいてはいるけれど、なかなか行動が変わらない自分を責めてしまいがちな人
  • 自分の欲求が分からなくなっている人
目次

期待に応えることで、自分の存在価値を確かめてきた

最近、ひとつ気づいたことがある。

私はずっと、自分の存在価値を「相手の期待に応えること」で埋めてきた。
相手が喜んでくれるかどうか。
相手が求めているかどうか。
相手が私といたいと思ってくれるかどうか。

それを確認してから、ようやく自分がそこにいていいのだと思えた。

でも、これってよく考えるとおかしい。

「相手が一緒にいたいと思ってくれているから、私は一緒にいられる」

——そう思うことは、つまり選択権を相手に渡しているのと同じだ。

私がそこにいるかどうかを決める権利を、自分ではなく相手に預けてしまっている。

夫の顔色をうかがって、
夫の言動に一喜一憂して、
機嫌がよければ安心し、
不機嫌だと心配になり、
傷つきたくないから攻撃的になる。

そんなパターンを繰り返していた過去。

ほとんど不機嫌にならない夫だが、最近は少しだけイライラすることが増えた。
私のせいかもしれないし、何も関係ないかもしれない。

それでも私は自然と夫の機嫌をとるような行動をしてしまう。
私と一緒にいたいと思うように行動してしまう。

そんな自分に気づいたとき、ハッとした。

私は夫の意思ばかり優先して、私の意思は夫の意思ありきで考えていた・・・!

本当に大事だったのは、たったひとつの問い

本当に大事なのは、

私がこの人と一緒にいたいか、なんじゃないか。

昔から私は「私のことが好きな人」が好きだった。
私の無価値感を埋めてくれる人、自己肯定感を上げてくれる人、そんな人が好きなタイプだった。
相手が自分に気持ちがあることが分かっているから、一緒にいて安心できた。

でも、私はその人たちのこと、心から好きだったんだろうか・・・?

今になって、そんな疑問が出てきてしまった(過去の彼氏たちゴメン)。

一緒にいる人を選ぶとき、問うべきだったのは「私がこの人と一緒にいたいのか」だけじゃないか。

それだけが本質で、それ以外のことは、実はどうでもよかったんじゃないか。

相手にどう思われるか、相手が私を選んでくれるか
——そこに意識を向けている間、私は自分の意思を後回しにしていた。

自分が何を望んでいるかより先に、相手の望みを探っていた。
それは一見、優しさや気配りに見える。
でも実際は、自分の選択を無視する行為でもあった。

期待に応え続けることは、安全に見える。
嫌われない。
見捨てられない。
少なくともその瞬間は、関係が壊れずに済む。

でもその安全は、自分がそこにいたいかどうかとは無関係な場所で成立している。

相手の期待に応えることで作られるレールを、ただ走り続けているだけなんだ。

私はレールに沿って走りたくないのに。

「一番」と言われた夜に

この前、母の用事に付き合った。

その日の夜、「三人兄弟の中でお前が一番だって、お父さんと話してたのよ」、と母からLINEが来た。

私は三人兄弟の中間子で、姉、私、弟という順番だ。
実家は家業を営んでいて、両親は男の子を欲しがっていた。
だから私が生まれたとき、両親はきっと落胆しただろう。

——そう思い込んで、ずっと生きてきた(それに事実だと思う)

自分の誕生を心から喜んでもらえていないんじゃないか、と。
特に若い頃は、自分の性のことも含めて、自分自身を受け入れられずにいた。

正直に言うと、母からのLINEを見たとき違和感しかなかった。

兄弟の中で誰が一番かを決める。
その発想自体に、やっぱり順位をつけていたんだ、という嫌悪感。
そして同時に気づいた。

昔の私なら、これを喜んでいただろう、ということに。

親の都合に合わせて、親の期待に応え続けて、ようやく三人の中で一番になれる。

その感覚こそが、気持ち悪かったけど、それが私の生存戦略だった。

親の期待に応えてはじめて「ようやく認めてもらえる」という安堵を、かつての私は必死に求めていたんだと思う。

選択権は、最初から自分にあった

もう自由にしてほしいし、自由になりたい。

そう思う一方で、今でもまた夫や親の要望に応えようとしてしまう自分がいる。
用事に付き合い、望まれる役割をこなし、気づけばまた同じレールを走っている。

過去のブログ記事をみても、同じようなこと何回も言ってることに気づく。

でも、もうそんな自分をを責めたくない。否定したくない。

長い時間をかけて身についたパターンが、気づいたからってすぐに消えるわけじゃない。

常に揺れ動く。揺れ戻る。それでいい。それが自然。

今はまだ、無理に応えてしまう自分に気づけただけで十分だと思う。
気づけたということは、少なくとも「これは自分の選択だ」と自覚しながら選べる自分に、一歩近づいたということだから。

一緒にいたいと思うなら、好きなだけいればいい。

そう思えないなら、そこにいる理由を、相手の好意や期待に明け渡さない。

他人の要望に応えたい理由が、見捨てられる恐怖や承認欲求100なら断ってもいい。

心から「やってあげたい・やりたい」と思えるなら、やったらいい。

これは誰かを切り捨てる話ではなく、順番の話だと思う。

相手がどう思うかを起点にするのではなく、自分がどうしたいかを起点にする

ただそれだけのことなのに、私にとってはずっと難しかった。

この気づきをどう日々の選択に落とし込んでいくか、
まだこれからだけど、
まずは言葉にできたことがひとつの区切りだと思う。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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